2006年11月04日

多摩川から狛江に

下布田遺跡を後にして程なく多摩川にでる。なんと人の多さ、日曜日とあって歩いてる人が多い。夫婦、若い二人ずれ、男同士、女同士、外国人
様々な人々が話しながら歩いてる。昔、文政12年(1829)に書かれた「江戸名所図会」に「鮎をもってこの川の名産とする」と言われ明治大正時代に鮎漁の全盛期をむかえる位多摩川の鮎は有名で、多くの江戸府内からわざわざ鮎漁をしに来たり船遊びを楽しんだりした。当時は清流として有名だった。すこし歩くと日活撮影所が見えてくる。のちに東洋のハリウッドと称された所。4代目調布市長になった本多嘉一郎が京都から映画の撮影地を探しに来て「時代劇、現代劇に最適」と電報を打って撮影所の誘致に係わった。
何千年前より多摩川を中心に発展してきたのだろう。



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調布側から多摩川、川崎を見る
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2006年10月27日

ウォーキング第3弾その3

ここは下布田遺跡。これより南に500m位行ったところに古天神公園がある。ここも約1万年前位からの遺跡が発掘されている。
つまりこの辺一帯は縄文人が住んでいたのである。目の前には住宅が並んでいるが、当時多摩川が流れていて、女達が鮭などを捕っている。後ろは森林だ、子供がドングリ、栃の実を拾いあつめていた。男達が狩りから帰ってきた、獲物はイノシシだ、私には見える?なんだか懐かしい感じがする。
遠くをみれば富士山が煙りをあげていた。「さ、行こうか」と家内が言ったので「そうするか」と林を出ようとしたとき、風に乗って「またこいよ」と言ったような気がした。思わずふりむいた時、縄文人の家族が手を振っていた。そして私は「また来るよ」とつぶやいた。家内が「何か言った」私は別にと答えながら2500年前の同じ空を見、風を感じながら縄文人と一体になれたような楽しい時だった。

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古天神公園遺跡。ここに布多天神が有った


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下布田遺跡。きっとこんなドングリをパン状にして食べていたのでは

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これが多麻郡の起こりの苧麻(からむし)です。この茎が麻の元になります
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古墳時代後期の円墳あと。品川道沿いに円墳が沢山あったが、開発で消滅してしまった。
次は多摩川から狛江<続く>
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2006年10月21日

ウォーキング第3弾その2

旧甲州街道に入り国領を抜けて布田に着いた。布田駅前と言うこの交差点を直進すると江戸時代の布田五宿である。ここを新撰組で有名な近藤勇・土方歳三・沖田総司などが出稽古で何度も歩いていただろ。幕末を急いで駆け抜けた3人に思いをはせながら信号を左折する。この道は南北に通っていて
昔の鎌倉みち、鎌倉往還である。鎌倉みちは京王線布田駅の踏切を横切り品川道を渡り多摩川にでる。それを左折し日活撮影所をすぎたあたりから川を渡り神奈川県側に上陸して一路鎌倉。新田義貞の鎌倉攻めにこの道を通ったかも?
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布田商店街
商店街をぬけて品川道にでる。椿地蔵の信号を渡り右に曲がり調布方面に向かう。すこし行ったあたりで今度は左折する。家内が「どこにむかってるの?」と聞いてくるから「おれの家」と答えた。「なに言ってるの、バカじゃないの」とおしゃりましたので、「ほんとうだよ」といいながら歩いてるる。のどかでだんだん秋の深まりを感じる午後である。この当たりも住宅が沢山できてきた。新築中の家では大工さんの金槌の音がきこえてくる。
そんなことを言いながら着いた。「なにただの雑木林じゃないの」
なに言ってるんだか「ここがおれの家」と平然と言ったので家内は「何時の話よ」とまた聞き返した。
ここは通称ハケ下と呼ばれる所で2500年前の遺跡後、今は雑木林だけどこの地下には住居跡だとか墓・石刀・土偶などが発見されている。


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2006年10月16日

ウォーキング第3弾

きょうは薄曇りながら散歩日より?
甲州街道を下りながら途中で多摩川にぬけて狛江に行くコースを歩く
京王線つつじヶ丘駅から甲州街道を下る。この辺は昔神代村その前は金子村と呼んでた所。坂を下ると菊野台と言うなんとも味気ない地名であるが、地元では下金子とよんでいる。信号の角に交番がある。その並びにひっそりと
お堂がある。しかしこの地蔵尊はただのお地蔵さんじゃない。江戸時代には甲州街道の名所の一つにかぞえられたお地蔵さんで結構府内から観光客でにぎわったらしい。
名前を妙円地蔵と呼ぶ。
なぜ有名かといえばかの「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴の著書「玄同放言」に、高名な幕末の志士渡邊崋山の挿絵いりで文政2年(1819年)に紹介された。
境新田の百姓の娘熊が、金子村に嫁いだ。その後、夫の死別、再婚後病気になり盲目となってしまった。夫と別れ、村の名主にたのみ深大寺で、仏門にはいり尼となった。名を寿量妙円と称した。それからは妙円は村辻に立ち念仏を唱え村の衆からの小銭を集め「妙円地蔵」を作くり、脇で念仏を唱え続けた。ある時村人が加持祈祷を頼んだところ、霊験があったのか、たちまち村中に知れ渡り、村人は妙円に加持を頼むようになった。
文化13年(1816年)春頃から加持を頼んでも断れるので訳を問いただすと妙円曰く「私は来年の冬、12月28日に念仏成仏するのでお断りしてる」と言うので、村人はそれ以降頼むのはやめていた。しかし中にはどうしてもと頼まれるので、加持をすると効力があった。
次の年の12月26日村中を歩き暇乞いをし、27日に村人に頼み湯浴みをし、28日念仏合唱を始め翌29日念仏の声が細くなり、極楽往生をとげた。妙円の体はまことに綺麗だったので、村人は今さながらに念仏の功徳に感じた、また、往生の日が1日遅れたのは村人達が無理に加持を頼んだせいじゃないかと語りあったそうな。尚遺体は深大寺に葬られたとも古老の話でも不明である。20〜30年前位までは地元の人達で年に1回は地蔵尊で法要をしていたが。いまではこの事を知っている者は少ない,少し寂しいかぎりですね。こう言う伝承は受け継いでいってほしいものだ。
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いつ頃首が無くなったのは判らないが明治の時には無かったらしい。
今はつつじヶ丘から菊野台にかけては畑がなくなってしまったが、もう一つ金子の名物があった。それは「金子の瓜」だ。金子の瓜とは真桑瓜のことで
文政9年(1826年)書かれた「新編武蔵風土記稿」に金子村の条に
あり当時でも有名だったが今は作られなくなったと記述されている。
他の村の瓜より美味で「金子瓜」とよび、ここの名産であった。
しかし1826年当時はもう作られていなっかた。なぜ作られなくなったのかはわからない。
野川を渡り、新甲州街道と旧道に当たる。旧道にはいり国領に至。
<続く>







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2006年10月11日

またまた歴史第3弾

今日はいけるところまでいくよ!
前回多麻郡狛江郷と書いたが多麻とは多摩川流域は苧麻(からむし)とよばれ、多くとれた。麻の歴史は古く紀元前4000年頃エジプトの遺跡から麻の布が発見されている。日本でも弥生時代の布の一部が出土している。
これを租・庸・調の調として布を朝廷に納めていた。そしてこの苧麻のことを「麻」とよび、多く麻が取れるところから多麻と呼ぶようになっていた。
また世田谷区の砧は自生している「からむし」を刈り取り、皮をとって
布にするが、それを多摩川でさらすが、繊維がかたいので板でたたて柔らかくする、この板のことを「砧」と呼んでいた。
また狛江の由来としては一番言われている説として渡来人特に高句麗人が移り住んだ。高麗人が居たところ→高麗居→駒井。
又狛江は旧朝鮮語からきているとか、多摩川に大きな入江があったとか
「コマイ」のイが変化して狛江になった。と諸説あります。
狛江の事はさておいて、ここからは旧神代村を中心に話しをしましょう。
684年天武天皇の時代百済から僧侶・男女23人が武蔵国に置くと日本書紀に書かれていて初めて武蔵という名称が出てくる。
持統天皇時代(687〜690年)断続てきに新羅より渡来人が移り住んでいる。かなり早くから仏教信仰が発達していて、7世紀末にあの深大寺の釈迦如来倚像が作成されたとの伝承がある。このことから調布・狛江は早くから渡来人との関わりがある土地なのである。
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<図説調布の歴史参考>重要文化財指定及「深大寺縁起絵巻」
但し、深大寺創建は天平5年(733年)萬功上人によると伝えられる。
一説には天平6年とも。
萬功(まんくう)上人は旅人福萬と郷長の娘とが深い仲になり、深沙大王(じんじゃだいおう)の助けにより結ばれ子供をさずかり、その子供が萬功上人であると深大寺縁起にしるされている。いずれにしても国分寺の創建が天平13年(741年)完成が天平勝宝7年(755年)だから多摩において最古に近い寺である。
時間がきたので今日はここまで。
ことわっておきますが、このブログは歴史物ではありません、あくまでウォーキングが主体です。<続く>





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2006年10月09日

番外編

三連休の中日、天気も最高
午前中野川から入間にかけてウォーキングをする。
風が野川を吹き抜ける。
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久々にウォーキングの記事が書ける。上の写真の右は入間町城山遺跡の全景
です。ここはかなり古くから人が住んでいた。先土器時代から縄文・弥生・平安時代までの住居跡が発見されている。
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午後は葉山にドライブ!
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今日は夏がもどったようだ。夏だ!秋はみとめない、なんてったて夏。と
家内が言ったとか言わないとか?

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稲村ヶ崎の向こうに夕日に染まる富士山なんか見るの久しぶり。
夜は箱根「天山」で温泉
<続く>

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2006年10月06日

武蔵国誕生まで

またまた大雨!手(チョキ)昨日に引き続き調布の歴史第2弾
稲作が伝来したからといって今のように充分な米や麦が取れたわけではない。大雨もあれば台風もある、まして肥料などない時代、まだまだ狩猟やドングリの実。魚や貝などをとって生活していた。たぶん米がとれればふんだんに食べられるという古代の人々の願望があったのではないか。
しかしそれを克服して徐々に農耕社会へと移行していき、食料の安定化を実現した。それは階級社会の始まりでもある。沢山米がとれれば備蓄をしそれを背景に強い者が弱者を統合していく。
2世紀には九州を中心に強大なクニが形成され倭国大乱に発展し、3世紀には魏志倭人伝に古代最高のヒロイン卑弥呼が登場する。
しかし多摩を中心にしたこのあたりは比較的穏やかでまだ文化的に遅れていて意外と平穏だったのではないかとおもわれる。
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【図解調布の歴史参考】
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写真をクリックすると拡大写真になります。
調布市内には大型の古墳は存在していない。小型の古墳(円墳)群が布田から飛田給にかけてある。むしろ狛江の方が素晴らしい古墳が存在している。
小首長が統治していたと思われる。
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古墳時代は3世紀から7世紀まで続くが、調布の古墳は6世紀末から7世紀のものがほとんどで、4世紀ぐらいはまだ小規模集落だが6世紀末ぐらいから人口も増加していく。
第32代崇竣天皇時代(589年)佐須村虎柏(狛)神社が神地を賜ると伝えられている。これが本当ならば調布でも古い神社であり、多摩においても古い神社の一つである。
ともあれ、645年日本に激震が走った。クーデターである。大化の改新。
これを契機に中央集権体制となり、律令国家が誕生した。
国の60になった。武蔵国は元々无邪志と書いた、胸刺(むさし)知々夫(ちちぶ)と三ヶ国を統合して无射志(むさし)国が誕生した。
規模により大・中・小とあるが无射志国は大国だった。
国の下に郡(最初は評)その下に里(のち郷となる)をおいた。
したがって調布は无射志国多麻郡狛江郷となる。
多麻郡とは今の多摩から中野・杉並・世田谷である。
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写真をクリックすると拡大します。
またまた雨が降れば歴史続く!
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2006年10月05日

最初の住人はだれか?

やっと雨が降ったので、家でゆっくり!
よくよく考えてみると、なんで調布なんだ。調とは令に規定されている
租・庸・調という税の一つであり、その中に布があった。これは学校でも習ったよね。しかし我が市からは一つも出土されていない。僅かに正倉院にあるのが現在埼玉県比企郡小川町付近で出土された調布が残されている
img136.jpg<参考資料:図説調布の歴史より>
では調布の名の由来はと言うと、江戸期に編纂された「新編武蔵風土記」によると桓武天皇の時代木綿の実が日本に渡ってきたがこれをどうやって布にに変えたら良いのかわからない。同じころ多摩川付近に広福長者という者が住んでおり、これがあの菅原道真に繋がる縁者らしい。布多天神で7日7晩祈った。神様より布を作る方法を啓示され、早速多摩川で試したところ布が出来上がり朝廷に納めた我が国木綿第1号。天皇は大変お喜びになりその布を『調布』(てづくり)と呼ぶようにと言いそれからこの辺を「武州調布の里」(ぶしゅうてづくりのさと)【多摩の歴史5参照】という名前になったとまーちょっとあいまいな伝承がありますよ。調布の名前の由来はこの辺にして、じゃあ調布に住民登録した最初の人たちはだれか?今から3万〜2万年前に住み着いたと考えられる(野川・仙川遺跡)特に仙川遺跡は新甲州街道と旧甲州街道の三角州、今のロイヤルホストがある辺です。脇に仙川が流れていてわき水がコンコンと湧いていて住むのには絶好の場所だったんではないかな。
しかし彼らが長期定住していたとは思われない。またどこかえ獲物をもとめて移動していったんじゃないかな。
長期定住となると縄文早期約9000年前の遺跡である(上野原・若葉町遺跡)が段丘上に集落を築いた。やっぱりある期間をおいて移動していったと思う。やっと縄文後期から弥生の前期約2500年前当たりから、下布田遺跡(昭和62年国の史跡に指定)がある。
京王線布田駅から多摩川に向かって1キロ歩いた所にある遺跡かな。
当時は多摩川が目の前にあり魚を捕ったり、狩猟をしたり絶好の場所だったようだ。土製耳飾り・石刀や石冠・土偶、また甕棺墓なども出土されていて集団で住んでいたが、このころの環境は厳しく気温が今より低く、狩猟も少なくなる、乱獲による自然破壊が進んでいるので、これもまた食料を求めて移動したと思われる。
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【参考資料:図解調布の歴史より】
写真をクリックすると拡大します。
いよいよ、紀元前1世紀ぐらいになると稲作が調布にも伝来してきた。
稲作は九州北部から始まる、約2400年前だ。岡山の朝寝鼻遺跡でイネプラントオパールが発見されている、もしかすると2000年ぐらいさかのぼるかも知れない。この調布に伝来したのはそれから約400年後である。
調布市内では深大寺城山西遺跡で八軒、入間町で一軒分が出土している。意外と早く伝来してきている。だって北海道を見て下さい。今でこそ北海道は
米の収穫量は日本一ですが、稲作が始まったのは明治になってからですよ。
中国江西省や湖南省で1万年前以上前の稲籾が発見されている。またせつ浙江省寧波河姆渡(カホド)村からは7000年前の水田跡が発見されている。北海道に稲作が渡るまでに実に約6800年位かかったと言うことですよ。
どうやらこの辺の人達が調布定住住人第1号ではないか?
どこから転居してきたが判らないがここで狩猟から農耕生活に変化して行ったと思われる。ただ西つつじヶ丘・菊野台・柴崎などにはこのころの遺跡は出土していない。西つつじヶ丘・菊野台あたりは殆ど遺跡らしいものなく住むのに適していなかったのか。古老の話によれば甲州街道から南側は昔は沼地だったらしい、掘ると粘土質で覆われていて居たとのこと。
<次は武蔵国誕生まで>
明日も雨ならわーい(嬉しい顔)

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2006年10月02日

調布の方言について

土曜の夜、例の如くウォーキングと散歩をしていた所、コオロギがないていました。家内が「もう秋ね」と言うので「そうだな」といったところ
「これエンマコオロギよ」と言うので「何処がエンマ何だよ」と言ったところ「ルルル〜」て鳴いてるでしょ。「は〜どこが」?
意味のない会話をしながら歩きました。ところで何で神代団地て言うの?
と又変なことを聞いてきた。何十年の此処にいてしらないのか。
「かみよ」と書いて神代「じんだい」と読む。
明治22年(1889年)4月1日神奈川県北多摩郡神代村として誕生
そうここは神奈川県だったのよ、品川県だった時もあるよ。
元は深大寺村だったが深大寺村・佐須村・柴崎村・金子村・入間村・大町村・下仙川村・北野村飛地が神代村と呼び、西つつじヶ丘・菊野台1丁目
を神代村大字金子と言ったのさ。
なんで神代村なのかて、ハッキリしたことは判らないが、全体の村の大きさからいくと深大寺村でも良かったんだけど旧佐須村あたりが反対したらしい。そこでジンダイジ村のジンダイの音だけとって、神秘的な神代村が提案され、全員の同意が得られたという話もある。
金子でも西つつじヶ丘を上金子(うわがねこ)と呼び菊野台を下金子(したがねこ)と呼んだ。
ま、この辺も当時はど田舎でだったんだ
つい10年前ぐらいまで調布弁というか、多摩弁なのか判らないが方言を使う人もいたよ
例えば
「よ〜、今日はがめちぃまったから早くけんべよ〜」
解説 これはがめちぃまったがポイントで疲れたの意味です
「さ、今日は疲れたから早くかえりましょう」となる
「おめ〜よ、そのかっこみじこくだな」
解説 これはみじこくがポイントでみじめったらしいとかみっともないの意味
「お前の姿はみっともないな或いはみじめったらしいな」となる。
まだある押すことを「おっぺす」と言う
又、この辺のおばあちゃんは最後に「よ〜」をつける
「どうぞ、おあがんなさいよ〜」
となる
いまでも偶に言う人がいますよ。
ま、今週は雨が多いみたいなので散歩いえウォーキングは中止になるみたいだから調布や神代村の歴史を紐解きましょうかね。
<続く>
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2006年09月28日

中仙川遊歩道 その2

さらに住宅街を歩いていると、歩道から中央高速道路が見えてきた。
家と家の間を抜けると畑があり、中仙川遊歩道の標識が立っている
さぁこの先はと期待しながら探すがどこにも見あたらない、まさかここで終わりそんな訳ないと二人は懸命にさがすが無かった。ここで中仙川遊歩道の旅も終わり?そうです終わりです。後で三鷹の地図を調べたがありませんでした。
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まぁ初めての散歩旅はこんなものでしょう。この後高速の下を新宿方面に歩いていると左手に神社がみえてので休息!CIMG0293.JPG鳥居をくぐると左に小さな鳥居に富士嶽神社と書かれていて富士山の形をした石が鎮座している。その奥には厳島神社と書いてある小さな社がありました。

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さらに奥に本殿があり何か歴史を感じられる社殿です。
創建は不詳で古くは稲荷社と呼ばれていたらしい。
弘治3年(1689年)戦国時代小田原北条氏康の時代に麻生某が稲荷明神として勧請し延宝3年(1675年)大社宮を建立
明治6年(1873年)村社とし中嶋神社と改称
祭神は五穀豊穣・金井安全・産業振興で宇迦乃魂命
宝物は新田義貞奉納の手旗或いは大将旗を保管
鎌倉末期 元弘3年(1332年)5月人見原合戦又は金井原合戦とも呼ばれ深大寺城(別の機会に詳しく話します)に立てこもった鎌倉北条氏と新田方の左翼の大将 篠塚伊賀守[参考資料]とが戦ったおり、伊賀守は三鷹新川の不動堂に戦勝祈願として奉献したとあるが、これの事か?
今から680年も前のこととはいえ新田方の武将達の鼓動や鯨波が聞こえる。
休息した後帰宅する為に歩いていると「なんだろう?」と足をとめてみた。
それは住宅と住宅の間を抜けている路地です。しかしどうやら私道ではないみたいで、しかも家の裏側を通っていて、人が通るのがやっとで、遊歩道でもありません。家々の庭先を眺めながら進んでいると、色々な音が聞こえてくる。赤ちゃんの泣き声、テレビの音、子供の声、台所の音、なかにはピンポンをやっている音も聞こえてきた。なにか迷路に入ったかんじです。
人は我々以外まったく会いません。日も暮れて一層不思議な空間に迷いこんだようで、なんかCMにありそうな情景です。全長約2kぐらいの路地裏ワンダーランドて感じでした。小さな散歩旅は楽しい
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<続く>
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