よくよく考えてみると、なんで調布なんだ。調とは令に規定されている
租・庸・調という税の一つであり、その中に布があった。これは学校でも習ったよね。しかし我が市からは一つも出土されていない。僅かに正倉院にあるのが現在埼玉県比企郡小川町付近で出土された調布が残されている
では調布の名の由来はと言うと、江戸期に編纂された「新編武蔵風土記」によると桓武天皇の時代木綿の実が日本に渡ってきたがこれをどうやって布にに変えたら良いのかわからない。同じころ多摩川付近に広福長者という者が住んでおり、これがあの菅原道真に繋がる縁者らしい。布多天神で7日7晩祈った。神様より布を作る方法を啓示され、早速多摩川で試したところ布が出来上がり朝廷に納めた我が国木綿第1号。天皇は大変お喜びになりその布を『調布』(てづくり)と呼ぶようにと言いそれからこの辺を「武州調布の里」(ぶしゅうてづくりのさと)【多摩の歴史5参照】という名前になったとまーちょっとあいまいな伝承がありますよ。調布の名前の由来はこの辺にして、じゃあ調布に住民登録した最初の人たちはだれか?今から3万〜2万年前に住み着いたと考えられる(野川・仙川遺跡)特に仙川遺跡は新甲州街道と旧甲州街道の三角州、今のロイヤルホストがある辺です。脇に仙川が流れていてわき水がコンコンと湧いていて住むのには絶好の場所だったんではないかな。
しかし彼らが長期定住していたとは思われない。またどこかえ獲物をもとめて移動していったんじゃないかな。
長期定住となると縄文早期約9000年前の遺跡である(上野原・若葉町遺跡)が段丘上に集落を築いた。やっぱりある期間をおいて移動していったと思う。やっと縄文後期から弥生の前期約2500年前当たりから、下布田遺跡(昭和62年国の史跡に指定)がある。
京王線布田駅から多摩川に向かって1キロ歩いた所にある遺跡かな。
当時は多摩川が目の前にあり魚を捕ったり、狩猟をしたり絶好の場所だったようだ。土製耳飾り・石刀や石冠・土偶、また甕棺墓なども出土されていて集団で住んでいたが、このころの環境は厳しく気温が今より低く、狩猟も少なくなる、乱獲による自然破壊が進んでいるので、これもまた食料を求めて移動したと思われる。
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いよいよ、紀元前1世紀ぐらいになると稲作が調布にも伝来してきた。
稲作は九州北部から始まる、約2400年前だ。岡山の朝寝鼻遺跡でイネプラントオパールが発見されている、もしかすると2000年ぐらいさかのぼるかも知れない。この調布に伝来したのはそれから約400年後である。
調布市内では深大寺城山西遺跡で八軒、入間町で一軒分が出土している。意外と早く伝来してきている。だって北海道を見て下さい。今でこそ北海道は
米の収穫量は日本一ですが、稲作が始まったのは明治になってからですよ。
中国江西省や湖南省で1万年前以上前の稲籾が発見されている。またせつ浙江省寧波河姆渡(カホド)村からは7000年前の水田跡が発見されている。北海道に稲作が渡るまでに実に約6800年位かかったと言うことですよ。
どうやらこの辺の人達が調布定住住人第1号ではないか?
どこから転居してきたが判らないがここで狩猟から農耕生活に変化して行ったと思われる。ただ西つつじヶ丘・菊野台・柴崎などにはこのころの遺跡は出土していない。西つつじヶ丘・菊野台あたりは殆ど遺跡らしいものなく住むのに適していなかったのか。古老の話によれば甲州街道から南側は昔は沼地だったらしい、掘ると粘土質で覆われていて居たとのこと。
<次は武蔵国誕生まで>
明日も雨なら


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