2006年10月16日

ウォーキング第3弾

きょうは薄曇りながら散歩日より?
甲州街道を下りながら途中で多摩川にぬけて狛江に行くコースを歩く
京王線つつじヶ丘駅から甲州街道を下る。この辺は昔神代村その前は金子村と呼んでた所。坂を下ると菊野台と言うなんとも味気ない地名であるが、地元では下金子とよんでいる。信号の角に交番がある。その並びにひっそりと
お堂がある。しかしこの地蔵尊はただのお地蔵さんじゃない。江戸時代には甲州街道の名所の一つにかぞえられたお地蔵さんで結構府内から観光客でにぎわったらしい。
名前を妙円地蔵と呼ぶ。
なぜ有名かといえばかの「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴の著書「玄同放言」に、高名な幕末の志士渡邊崋山の挿絵いりで文政2年(1819年)に紹介された。
境新田の百姓の娘熊が、金子村に嫁いだ。その後、夫の死別、再婚後病気になり盲目となってしまった。夫と別れ、村の名主にたのみ深大寺で、仏門にはいり尼となった。名を寿量妙円と称した。それからは妙円は村辻に立ち念仏を唱え村の衆からの小銭を集め「妙円地蔵」を作くり、脇で念仏を唱え続けた。ある時村人が加持祈祷を頼んだところ、霊験があったのか、たちまち村中に知れ渡り、村人は妙円に加持を頼むようになった。
文化13年(1816年)春頃から加持を頼んでも断れるので訳を問いただすと妙円曰く「私は来年の冬、12月28日に念仏成仏するのでお断りしてる」と言うので、村人はそれ以降頼むのはやめていた。しかし中にはどうしてもと頼まれるので、加持をすると効力があった。
次の年の12月26日村中を歩き暇乞いをし、27日に村人に頼み湯浴みをし、28日念仏合唱を始め翌29日念仏の声が細くなり、極楽往生をとげた。妙円の体はまことに綺麗だったので、村人は今さながらに念仏の功徳に感じた、また、往生の日が1日遅れたのは村人達が無理に加持を頼んだせいじゃないかと語りあったそうな。尚遺体は深大寺に葬られたとも古老の話でも不明である。20〜30年前位までは地元の人達で年に1回は地蔵尊で法要をしていたが。いまではこの事を知っている者は少ない,少し寂しいかぎりですね。こう言う伝承は受け継いでいってほしいものだ。
CIMG0332.JPG
いつ頃首が無くなったのは判らないが明治の時には無かったらしい。
今はつつじヶ丘から菊野台にかけては畑がなくなってしまったが、もう一つ金子の名物があった。それは「金子の瓜」だ。金子の瓜とは真桑瓜のことで
文政9年(1826年)書かれた「新編武蔵風土記稿」に金子村の条に
あり当時でも有名だったが今は作られなくなったと記述されている。
他の村の瓜より美味で「金子瓜」とよび、ここの名産であった。
しかし1826年当時はもう作られていなっかた。なぜ作られなくなったのかはわからない。
野川を渡り、新甲州街道と旧道に当たる。旧道にはいり国領に至。
<続く>







posted by 爽崖 at 15:32| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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